仮定法の落とし穴
仮定法は「事実に反する、あるいは、事実に反する可能性が高い」ときに使われるこ
とは確かです。
しかし、それを厳格なまでに意識し過ぎると、文意や、相手が言っていることが分か
らなくなるかもしれません。
次の文を見てみましょう。
Japanese traditionally speak indirectly, leaving the listener to figure out what the
point is. Thus, while an American might say to a friend, “I don’t think that coat goes
very well with the rest of your outfit,” a Japanese might say, “Maybe this other coat
would look even better than the one you have on.” Americans value a person who ‘get
right to the point’.
might は仮定法ですが、「アメリカ人じゃないから・・・と言わない」なんて、事実に反
する云々を言っているわけではありません。
仮に、相手が選んだ服に対する感想を求められたときに、アメリカ人なら「その上着
は君が今身に付けているものと合っているとは思わない」とはっきりと言うかもしれないのに対して、日本人は「たぶん他の上着のほうが、今身に付けているものと合うんじゃない」と、遠回しな言い方をするかもしれない、と言っているにすぎません。
あくまでも仮定の話をしているわけで、アメリカ人の中にも遠回しな言い方をする人
がいるかもしれませんし-おそらく、いるでしょう-、日本人の中にもはっきり言う人がいるかもしれません-おそらく、いるでしょう。念のため、仮定法 might で表現しているだけのことです。
筆者の気持ちのなかには、「一般的にアメリカ人ははっきりと言うが、日本人は遠回
しな言い方をする傾向がある」というのは事実だ、という意識があるのは文脈から明らかです。
次の対話を見てみましょう。
A:If she weren’t foolish, she wouldn’t accept his proposal.
B:If she is foolish…
A:End of (the) story.B:I’m just praying she’s not foolish.
いきなり A は、「もし彼女がバカじゃないなら、あいつの提案を受け入れないだろう」と、仮定法を使っていますが、
実際は、彼女はバカだからあいつの提案を受け入れるだろう。
なんて言っているわけではありません。
続く会話
B「もし彼女がバカなら」
A「万事休す」
B「祈るしかないな。彼女がバカでないことを」
から、「彼女はバカだ」なんて思っていないどころか、「賢明な彼女なら彼の提案を受け入れないだろう」と願っている印象さえ受けます。
実際には彼女がどんな行動に出るかはわかりません-愚かにも彼の提案を受け入れ
るかもしれません。そのため(念のため)仮定法を使っているのです。
もちろん、どちらにころぶかわからなければ、仮定法を使わずに、
A:If she is not foolish, she won’t accept his proposal.
と言うこともできました。
しかし、それは、彼女のことがよく知らないのでどんな行動に出るのか予測できない
ケースです。
会話の内容から、二人は彼女のことをよく知っていて-彼女は賢明な女性だ-、「(賢明な彼女のことなら大丈夫だと思うが、それでも)もし彼女がバカなら、彼の提案を受け入れるかも」という不安もあるのです。その意識が仮定法を使わせているのです。
If biologists weren’t as blind as the rest of us, they probably wouldn’t hesitate to
classify dogs as social parasites.
「もし生物学者の目が一般人(生物学者以外の人たち)ほど曇っていなければ、おそ
らく、彼らは犬を社会的寄生動物とちゅうちょなく分類するだろう」これを
仮定法は常に事実に反すると考えて、
「生物学者の目は一般人(生物学者以外の人たち)と同じように曇っているので、彼
らは犬を社会的寄生動物と分類することにちゅうちょするだろう-犬を社会的規制動
物と分類しないだろう」
と解釈すると、おかしいことはすぐに気づくでしょう。
筆者は、biologists と、複数形を使っているのだから、
「生物学者たちの生物に対する知識は、生物学を専門にしていない人たちと同レベル
である」と言っていることになります。
当然、生物学者は、生物に対する見方、あるいは、分類の仕方は、一般人とは違って
います。
「生物学者の目は一般人(生物学者以外の人たち)ほど曇っていないので-犬に対し
ても一般人とは異なる見方をするので、通常の生物学者なら、おそらく、犬を社会的寄生動物とちゅうちょなく分類するだろう」
と言いたいのです。
では、なぜ仮定法を使ったのか、ということですが、
「生物学者の中には、犬を社会的寄生動物と分類しない人もいるかもしれない」
という可能性も考えたかもしれませんが、それ以上に、
「普通の生物学者なら、その目は一般人(生物学者以外の人たち)ほど曇っていないはずなので-犬に対しても一般人とは異なる見方をするはずなので、当然、犬を社会的寄生動物とちゅうちょなく分類するだろう」*
という気持ちがこもっているのです。
* ここでは、動物の分類の話をしているだけで、犬に感情があるかどうかの議論をし
ているわけではありません。もちろん、犬にも感情はありますし、生物学者といえ
ども、そう思っているはずです。ただ、学会では、それを口に出せない空気も一部
にあるようですが。
当たり前のことですが、動物にも、人間と同じ感情があり、性格があります。
(13頭の猫と暮らしてきた書き手注)
話を英語に戻しますが、何事にも原理・原則-英語なら、英文法-はありますが、そ
の原則に縛られすぎると、文意や相手のイイタイコトを読み間違ってしまいます。
要は、原理・原則を尊重しつつも、柔軟に対処することです。